新見荘年表
文字の背景に黄色のマークをしているものは、新見市内にある文化財です。
平安時代
(1100年代)
大中臣孝正により新見荘が成立する。 大中臣孝正が小槻隆職に新見荘領家職を譲る。
永暦元年(1160年)
この頃、小槻隆職が新見荘を最勝光院領に寄進する。
文治元年(1185年)
守護・地頭が設置される。 (平家滅亡)
鎌倉時代
建久3年(1192年)
(源頼朝、征夷大将軍となる。)
承久3年(1221年)
(承久の乱が起こる。)
嘉禄元年(1225年)
最勝光院兵火のため、炎上し、廃絶する。
文永8年(1271年)
新見荘を下地中分し、東方地頭方・西方領家領とする。
嘉元3年(1305年)
大蔵卿局法印信尊に領家領を譲る訴訟が起こる。 この頃より後は新見荘とは領家方新見荘を指す。
嘉元4年(1306年)
神郷高瀬に嘉元4年刻銘の石造薬師三尊像あり。岡山県指定重要文化財「石造薬師三尊像(石堂薬師三尊像)」
徳治2年(1307年)
信尊の領有権を認める院宣が下る。
嘉暦元年(1326年)
小槻匡遠が小槻信親と領主権の争奪訴訟を起こす。
元徳2年(1330年)
周防国美和荘の代替えとして、新見荘を東寺に永代寄進する。 新見荘地頭職を永代東寺に寄進の綸旨が下る。 宝台寺(金谷)に元徳2年刻銘の石造五輪塔あり。岡山県指定重要文化財「石造宝台寺五輪塔」
元弘3年(1333年)
則宗一行地頭方新見荘の年貢督促に来る。 新見荘東寺知行の宣旨が下る。
南北朝時代
暦応2年(1339年)
東寺が小槻匡遠と和解する。新見荘小槻匡遠知行宣が下る。 新見貞直が新見荘を横領する。
暦応3年(1340年)
東寺が小槻信尊と和解する。
康永元年(1342年)
東寺が知行の宣旨を行う。
文和3年(1354年)
東寺が知行確認の綸旨を行う。
正平12年(1357年)
唐松・正田・西方・金谷に正平12年刻銘の石造地蔵あり。岡山県指定重要文化財「石造延命地蔵(段の腰折れ地蔵)・(朝間地蔵、昼間地蔵)、(夕間地蔵)」「石造延命地蔵菩薩坐像」
貞治元年(1362年)
新見貞直の新見荘の横領が終わる。
貞治2年(1363年)
多治部氏の新見荘の横領が終わる。
貞治5年(1366年)
小槻兼治が新見荘の返還訴訟を起こす。
明徳元年(1390年)
東寺・小槻家が妥協を成立させる。新見荘東寺領となる。
室町時代
明徳3年(1392年)
(南北朝合一) 多治部師景の新見荘の横領が終わる。
明徳4年(1393年)
守護細川満之から半済地が返却され、東寺が16名の半済地を回復する。
応永元年(1394年)
新見清直が新見荘の代官となる。
応永2年(1395年)
16名の領家方内寺家方百姓により年貢減免などを要求する百姓等申状が出る。
応永8年(1401年)
岩奈須宣深が代官となる。荘内が大凶作になる。
応永9年(1402年)
垪和為清が代官となる。
応永15年(1408年)
安富宝城が代官となる。
応永20年(1413年)
新見清直が新見荘の代官となる。
応永30年(1423年)
新見清直が浮田・仏事田・桂田を東寺に譲る。
応永32年(1425年)
この頃、大田彦太郎忠継が田所職となる。
応永34年(1427年)
新見荘の百姓らが上洛し、安富宝城の罷免を嘆願する。
永享元年(1429年)
細川京兆家内衆の安富智安が代官となる。
文安3年(1446年)
新見荘八幡宮に鰐口を奉納する。 (岡山市東区長沼、来福寺に現存)
長禄元年(1457年)
新見荘地頭方が相国寺領となる。
寛正元年(1460年)
新見荘の百姓らが安富智安を罷免し、直務を要請する。 (この年全国的大飢饉が起こる。)
寛正2年(1461年)
幕府が東寺の直務を認可する。上使祐深・祐成が新見荘を視察する。 新見地方が大飢饉となり、年貢の減免を嘆願する。
寛正3年(1462年)
祐清が直務代官となる。金子衡氏が田所職を再任する。 この年、荘内が長雨霧害のため大凶作になる。
寛正4年(1463年)
8月25日祐清が横死する。地頭方政所が焼き討ちされる。 上使増祐・祐深、上使本位田家盛が来荘する。
寛正5年(1464年)
国方より御譲位の段銭が要求される。
寛正6年(1465年)
長永が新見荘の納税調査に下向する。家盛を罷免する。 祐成が代官となる。
戦国時代
応仁元年(1467年)
(応仁の乱起こる。) 祐成の使者左衛門五郎が来荘する。この年、大凶作が起こる。 国衙領土一揆が起こる。
応仁2年(1468年)
新見荘が室町幕府に没収され、将軍御料所となる。 代官が寺町又三郎に定まる。祐成が代官を辞退する。 引き続き国衙土一揆が起こる。
文明元年(1469年)
領家方土一揆が起こる。
文明2年(1470年)
伊勢氏が新見荘に代官を遣わす。金子衡氏がこれを退ける。
文明3年(1471年)
新見荘は伊勢貞固に預けられ、多治部雅楽次郎が又代官として荘に入部する。金子衡氏が失脚する。
文明10年(1478年)
新見荘東寺に顧補の奉書あり。
文明11年(1479年)
伊勢貞固を東寺に引き渡すよう多治部雅楽次郎に奉書を出す。 山田具忠が新見荘に代官を遣わす。金子衡氏これを退ける。 山田具忠請が切代官となる。
文明14年(1482年)
東寺が新見荘三職に荘の現状報告を要請する。山田具忠が解任の奉書を出す。 幕府は東寺直務を許可する。
文明17年(1485年)
この頃、祐成・乗泉などが直務代官になる。 西方字太田にて合戦あり。
延徳3年(1491年)
細川京兆家内衆の秋庭元重が代官になる。 秋庭元重が新見荘へ入部する。
明応2年(1493年)
多治部氏が新見荘を放棄する。
明応5年(1496年)
新見荘に大洪水あり。
明応6年(1497年)
秋庭元重が新見荘代官を罷免する。
文亀元年(1501年)
細川典厩家被官の新見国経が代官となる。
永正14年(1517年)
西方合戦?この前後に新見国経が尼子氏と提携する。
永正15年(1518年)
三村氏が新見荘を攻める。
享禄2年(1529年)
観音寺(上市)に享禄2年刻銘の石造五輪塔あり。新見市指定重要文化財「観音寺五輪塔」
享禄3年(1530年)
尼子氏が美作攻略を計る。
天文元年(1532年)
尼子氏の武将三好安芸守が美作を攻める。
天文2年(1533年)
庄為資が上野頼久を降し、松山城に入る。
天文3年(1534年)
三村氏が新見荘公用金徴収に奉書を送り、戦術をとる。 新見貞経が代官となる。
天文20年(1551年)
三村家親が多治部氏と徳光氏を降す。
永禄2年(1559年)
三村家親が尼子氏の武将吉田義辰を討ち、松山城に入る。
永禄7年(1564年)
東寺公文の円秀が年貢催促に下向する。
永禄9年(1566年)
三村家親が宇喜多直家の刺客のため銃殺される。 毛利氏が尼子氏を滅ぼす。快運が来荘する。
永禄10年(1567年)
快運が再び来荘する。 新見貞経が参宮のため上洛する。 三村元範が楪城に入る。新見市指定史跡「ゆずりは城(楪城)」
永禄12年(1569年)
公用漆5桶が新見荘より東寺に着く。 この後、年貢は東寺へ送られていない。
安土桃山時代
天正2年(1574年)
東寺、梅雪軒を新見荘に下す。荘内が荒廃する。
天正3年(1575年)
三村元範が戦死する。新見荘は毛利領となる
岡山県博物館編『平成28年度特別展 新見荘 ~中世荘園の記憶~』平成28年を元に加筆・修正