にいみデジタル博物館

新見荘資料

東寺領備中国新見荘 ―中世荘園の世界―

新見荘の範囲地図

新見荘は、現在の岡山県新見市にあった広大な荘園である。新見荘は鎌倉時代中期に下地中分により地頭方と領家方に分けられ、領家方は里村(西方)・中奥(なかおく)(足立(あしだち)・釜村)・高瀬村のまとまりがあった。新見荘は王家の最勝光院領(さいしょうこういんりょう)として伝領され、鎌倉時代末に後醍醐天皇により領家職(りょうけしき)・地頭職(じとうしき)が東寺に寄進された。しかし、後に地頭方は禅仏寺(ぜんぶつじ)(相国寺(しょうこくじ)の末寺)領となる。領家方である東寺領については、国宝「東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)」や『教王護国寺文書(きょうおうごこくじもんじょ)』に豊富に史料が残っており、支配と在地のあり方を詳細に知ることのできる有名な荘園の一つである。特に、細川管領(かんれい)家の被官(ひかん)安富氏の支配を排除した寛正(かんしょう)2年(1461)以後は、東寺の直務(じきむ)支配が実現したので、供僧(ぐそう)の会議録や往復した書簡などが濃密に残っており、これらは荘園研究の宝庫と言っても過言ではない。

東寺百合文書(東寺百合文書webより)

東寺の直務支配は、下級荘官であり地侍(じざむらい)層に属す三職(さんしょく)(田所(たどころ)金子衡氏・公文(くもん)宮田家高・惣追捕使(そうついぶし)福本盛吉)の主導の下に農民の要求によって実現した。農民はこれにより守護権力や国人(こくじん)の荘園への介入を防ぐだけでなく、年貢減免の獲得が容易になった。東寺の直務成立後、門指了蔵(かどさしりょうぞう)の下向(げこう)、直務代官祐清(ゆうせい)の下向と殺害事件、上使(じょうし)本位田家盛の下での地頭政所屋(まんどころや)新造、後花園天皇譲位・後土御門天皇即位に関わる段銭賦課(たんせんふか)などに際して、農民は一貫して年貢減免要求や賦課への抵抗を行った。特に、中奥・高瀬村は独自に主体的な農民闘争を展開した。しかし、応仁の乱が起こった時、東寺が西軍に味方したとして新見荘が御料所(ごりょうしょ)となったことで、事態は急変した。農民は国人勢力の在地侵攻に対して土一揆(つちいっき)により結束したり、田所金子衡氏や中奥・高瀬の農民が最後まで抵抗したりしたものの挫折した。応仁の乱後、東寺支配は回復して請負代官が所務(しょむ)にあたった。明応の政変など中央の変動が在地に影響して請負代官の支配は不安定であったが、年貢・公事(くじ)は京進されたので戦国末期まで荘園制は延命した。

新見荘代官祐清殺害事件とたまかきの書状 ―惨劇と愛の手紙―

地頭方政所跡

新見荘の祐清(ゆうせい)殺害事件は、寛正(かんしょう)四年(一四六四)八月二十四日に起こった。東寺御影堂(みえどう)の三聖(ひじり)の一人であった祐清は、門指了蔵(かどさしりょうぞう)の後任として寛正三年に新見荘へ下向して、惣追捕使(そうついぶし)福本盛吉宅に隣接する領家方政所(りょうけかたまんどころ)を拠点に、年貢徴収の任にあたった。祐清の年貢徴収は厳しく、農民が長雨・霜降を理由に三分の二の年貢損免要求を訴えるが、過酷な徴収を続けた。新見荘では三日市(三日、十三日、二十三日に市が立つ)の定期市が開催されていたが、祐清はそこでの農民の交易を観察し、市で農産物を換金した農民にねらいを定めて年貢の徴収を行った。殺害された二十四日は市が立った翌日で、祐清は荘内で年貢徴収を行っていた。その途上で、地頭方政所の隣の新造中の谷内の屋敷のそばを馬上のまま通過したところを咎められて、中間兵衛二郎とともに国主神社の境内で斬り殺された。領家方の農民は、地頭方で起こったこの事件に対し、敵討(かたきうち)のために犯人の谷内と横見を探索して地頭方へ寄せかけ、殺された祐清の馬が繋がれていた地頭方政所屋を焼き払った。その後、地頭方である禅仏寺は、幕府と密接な関係を持つ相国寺の蔭涼軒主季瓊真蕊(きけいしんずい)の圧力を背景に、地頭方政所屋と台所の新造を東寺に強硬に要求した。これに対し、東寺は上使本位田家盛を下向させて、この難題の解決に奔走させた。

祐清が「下馬咎め」された場所は、地頭方政所とそれに隣接する地頭方有力農民谷内の屋敷の間の道であるが、この顚末を記した図面が「東寺百合文書」にあり、現在の地頭方政所跡の田地区画と一致することが確認された。

たまかきは三職(さんしょく)の一人である惣追捕使福本盛吉の姉妹で、福本の屋敷地の隣にあった領家方政所で執務をする祐清の身の回りの世話をしていたようだ。たまかきは、善成寺(ぜんじょうじ)で執り行われた祐清の葬式に臨んで、その悲しみを吐露しつつ白小袖などを祐清の形見分けに欲しいとの書状を東寺に送進している。室町時代にあっては、足利義政夫人の日野富子が幕府政治をも動かす活躍をしたことはよく知られているが、農村の女性の手紙がそのまま現代に伝わった例は希有(けう)である。この女手(おんなで)が本位田家盛の手であるとの説もあるが、たまかきの祐清を思う心情は確かで、新見市ではこれを「愛の手紙」として顕彰している。

たまがき像
たまかき書状并備中国新見荘代官祐清遺品注文
(東寺百合文書webより)

辰田芳雄(東京大学史料編纂所共同研究員)