にいみデジタル博物館

新見荘資料

備中国新見荘の歴史

1.荘園制の成立過程

新見市の市街地

12世紀後半に成立した最勝光院領新見荘(さいしょうこういんにいみのしょう)は、土地の権利関係的に表現すると寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)であり、地理的な表現では領域型荘園である。新見荘は13世紀後半に下地中分(したじちゅうぶん)を経、14世紀前半に後醍醐天皇により東寺に寄進され、東寺領荘園となった。

荘園制は歴史的概念である。まず、寄進地系荘園の成立過程と、寄進地系荘園と領域型荘園との関係について概説する。

荘園制度は、奈良時代、743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が制定されて、初期荘園が形成されたことに始まる。墾田永年私財法は開墾した田地の私有を永年にわたり保障するもので、大寺院とりわけ東大寺には格段に広い面積の開墾が許可された。つまり、初期荘園は、主に東大寺が広大な原野を独占し、国司や郡司の協力のもとに、周辺の班田農民や浮浪人らを使用して灌漑施設(かんがいしせつ)をつくり、大規模な原野の開墾をおこなって成立した荘園である。越前国足羽郡東大寺領糞置荘(えちぜんのくにあすわぐんとうだいじりょうくそおきのしょう)など正倉院に開田図や文書が残り、詳細に実態がわかる。大仏建立や東大寺の経営の費用に充てられた。但し、律令制下にあった初期荘園は、輸租田(律令制的税制である租を負担する土地)であった。初期荘園は、現地の荘所を経営拠点として、国司・郡司の地方支配に依存して営まれ、独自の荘民をもたなかったので、10世紀ころには律令制の衰退とともに衰退していった。そこで、貴族や寺社は別の財源を求めることになった。

東寺(京都府京都市)

続いて現れたのが、免田型荘園(めんでんけいしょうえん)である。律令制下の税制は、租庸調(そようちょう)・雑徭(ぞうよう)・出挙(すいこ)であったが、10世紀になると正税官物と臨時雑役になり、11世紀後半には官物(→年貢)・雑役(→雑公事と夫役)〈のちに年貢・公事・夫役となる〉と一国平均役という中世的な税制が成立する。免田とは、官物と雑役という税のどちらか、あるいは両方が免除される土地である。中央政府が免除を認めたものを官省符荘(かんしょうふしょう)、国司が認めたものを国免荘(こくめんしょう)という。その免田からの収入が荘園領主の収入となった。こうした平安中期に現れた免田型荘園は、一箇所に集中的にあったのではなく、あちこちにばらばらと散在的に存在していた。この状態では荘園領主は土地支配がしにくいので、免田の周囲にある未開発地や荒れ地の公領を囲い込み、東西南北の境界の内側すべてを支配地とする荘園に変化する。高校の日本史教科書にしめされる紀伊国桛田荘(きいのくにかせだのしょう)の荘園絵図が典型である。この絵図には東西南北の四至に牓示(●=黒丸)が打たれ、その内部に集落や信仰の対象である八幡宮や堂がある。このように集落と耕地(田畠)と山野や河を含む一定地域の荘園を領域型荘園と呼ぶ。

免田型荘園も税の一部を荘園領主の収入として上納するという点で、寄進地系荘園(初期の寄進地系荘園)と言えるが、領域型荘園が本格的な寄進地系荘園である。

領域型荘園ができあがる過程を院政期の上野国新田荘(こうずけのくににったのしょう)を事例にとって少し詳しく説明する。10世紀前半に田堵(たと、有力農民)が田地を請け負う負名体制ができあがったが、田堵のなかには開墾を重ねて開発領主に発展したものもいた。一方、院は御願寺の造営や維持のための財源を必要としていた。そこで、鳥羽院のもとで、院の近臣藤原忠雅(ふじわらのただまさ)が姻戚関係にあった開発領主源義重(みなもとのよししげ、新田氏の初代)に私領を寄進させ、その寄進地をはるかに越える未開発地や荒れ地、山や河などを含む大規模な荘園として金剛心院領新田荘を立荘した。寄進をした源義重は広大な荘園の荘官の権利を獲得した。最勝光院領新見荘の成立過程も上記の事例に近いものであったと思われる。

2.最勝光院領新見荘<承安3年(1173)~正中2年(1326)>

新見荘の範囲

院政期には院・天皇・女院の発願による御願寺が多く作られ、その費用を賄うために多くの荘園が寄進された。特に鳥羽院政期や後白河院政期に多い。最勝光院も後白河院の妻である建春門院平滋子(けんしゅんもんいんたいらのしげこ、平清盛の妻時子の妹)が承安3年(1173)に建立した御願寺である。最勝光院は後白河院と建春門院の本拠地である法住寺殿(現在の三十三間堂を含む広大な敷地)の内部に建立された。その規模は壮大で、宇治の平等院と同様な形式の壮麗な寺院であったとみられる。藤原定家は「土木の華麗、荘厳の華美、天下第一の仏閣なり」(『明月記』嘉禄2年(1226)6月5日条)と賞賛している。1174年に源雅通(みなもとのまさみち)・藤原成親(ふじわらのなりちか)が荘園を施入するなど、院近臣を中心に荘園所領の寄進が相次いだ。備中国新見荘もこれらの一つである。新見荘は最勝光院が建立された1173年前後に最勝光院領として寄進された。

鎌倉末期の文書(「東寺百合文書」ミ函29)によれば、新見荘は大中臣孝正(おおなかとみのたかまさ)という人物が開発領主で、彼はこれを小槻隆職(おつきたかもと)に寄進した。大中臣孝正の詳細はまったく知られていない。小槻隆職は官務家(かんむけ)と呼ばれた有能な行政実務官僚であった。小槻隆職はさらにこれを最勝光院に寄進して、いわゆる寄進地系荘園である最勝光院領新見荘が成立したのである。寄進地系荘園の職(しき)の枠組みでいえば、開発領主が大中臣孝正、領家職が小槻隆職、本家職が最勝光院という関係が形成されたことになる。立荘の経緯は明らかではないが、後白河院や平清盛の権力を背景にした小槻隆職の活動により、開発領主の寄進した所領を核にして広域な荘園にしたと思われる。

東寺百合文書(東寺百合文書webより)

建春門院は1179年に没するが、後白河院と娘の宣陽門院(せんようもんいん)が最勝光院とその所領が保護した。さらには、建春門院を生母とする高倉天皇やその妻建礼門院平徳子が所領を継承した。最勝光院は王家と平氏とを繋ぐ拠点寺院だったからである。しかし、1185年、平氏は源氏により打倒され、後白河院は建久3年(1192)に没したので、後鳥羽院に伝領された。1221年の承久の乱により多くの八条院領など後鳥羽院方の荘園が没収されたものの、鎌倉幕府は六波羅施行状(「東寺文書」千字文)により新見荘での武士の濫妨(らんぼう)を禁じ、新見荘を御願寺最勝光院領として安堵した。その後、寺院としての最勝光院は1225年の焼亡により衰退するものの、王家が最勝光院領の支配を継承した。新見荘は文永10年(1273)に「領家方」と「地頭方」(新見氏)に下地中分された。この際の新見荘「領家方」の本所は最勝光院であろう。鎌倉時代後期は持明院統(じみょういんとう)と大覚寺統(だいがくじとう)の間で王家領知行の争いがあったので、新見荘もその渦中にあったが、正中2年(1326)の最勝光院領荘園目録(「東寺百合文書」ユ函1)に新見荘の得分が見られる。そして、新見荘は後醍醐天皇により最勝光院執務職とともに東寺に寄進された。東寺は供僧組織の中に最勝光院方を設け、七月八日の建春門院・正月十四日の建春門院の子高倉天皇の忌日には東寺御影堂で不断光明真言が勤修される法会が催された。

ところで、小槻隆職は本家職を最勝光院に寄進して、小槻氏は領家職の権利を保持した。この新見荘領家職は、小槻隆職以下国宗(くにむね)・通時(みちとき)と伝領されていったが、淳方の時に一族内で争いが起こり、その後もたびたび相論(そうろん)が続いた。南北朝期には北朝が領家職を東寺に与えたため、東寺と小槻氏の間で訴訟が繰り返された。そして明徳元年(1390)に東寺が小槻氏に年貢等の収入の七分の一を割き分けることで和解した(「東寺百合文書」る函13、明徳元年最勝光院方評定引付)。この契約は、戦国時代になり年貢が漆のみなった時にも小槻氏へ分納され、守られた。

3.新見荘の下地中分<文永10年(1273)>

地頭方政所跡

下地中分は、鎌倉時代に荘園領主が在地領主である地頭との間で土地を分割して互いに以後不干渉とする契約である。これが行われた理由は、本来年貢を徴収し荘園領主へ納入することが任務である地頭が年貢を未進・横領したため、荘園領主が本来の年貢高の減少を覚悟して一定の年貢を確保しようとしたことにある。下地中分の結果、荘園は公家・寺社領荘園(領家方)と武家領荘園(地頭方)に分割されたが、この状態を中世荘園と呼ぶ。

下地中分にいたるまでの歴史的過程は以下の通りである。1185年に源頼朝は後白河法皇から守護・地頭の設置を認められた。この段階の地頭は本補地頭(ほんぽじとう)と言い、1221年の承久の乱後に設置された新補地頭(しんぽじとう)と区別する。頼朝は御家人を年貢徴収者として地頭に任命する権限を得たことで、全国の土地支配権掌握の土台を築いた。本補地頭は以前から在地領主であった東国御家人がその権利を安堵された(本領安堵(ほんりょうあんど))ものであったが、承久の乱後の新補地頭は後鳥羽上皇方の所領を没収して新たな土地を与えた(新恩給与(しんおんきゅうよ))ものであったので、鎌倉幕府の支配は西日本へも拡大した。この時に、東国御家人が地頭として西日本にも移り住み、荘園領主との間で所領支配について相論が頻発した。この土地紛争の解決のために、1232年に御成敗式目が制定された。しかし、地頭の荘園侵略は続いたので、荘園領主はやむなく地頭請所(じとううけしょ、地頭請)や下地中分を行って、収入を確保した。

地頭請所は、一定量の年貢納入の確約と引きかえに荘園管理を地頭に請け負わせた荘園で地頭は荘園管理権を得た。下地中分は荘園領主と地頭で下地(土地)を分割するもので、地頭は在地領主の地位を確立した。高校日本史の教科書では、伯耆国東郷荘(ほうきのくにとうごうしょう)が1258年に領家(京都の松尾神社)と地頭の間で下地中分し、当時の執権と連署がそれを認定した花押が押されている絵図(東京大学史料編纂所所蔵)が掲載されていて、有名である。

新見荘の場合でも、承久の乱後に新見資満(にいみすけみつ)が新補地頭として入部したようである(「竹田家文書」6)。新見荘では地頭請の記録は知られていない。しかし、新見氏が在地で勢力を伸張させた結果、最勝光院領新見荘にも地頭新見氏との間で、文永10年(1273)に下地中分が行われた。新見荘の下地中分に関わる詳細な土地台帳が「東寺百合文書」に数多く残されているので、研究の蓄積が多い。「東寺百合文書」ク函1~5の文永8年2月28日新見荘領家方正検取帳案は、その表題が「領家御方」と記されていたこともあり、下地中分は文永8年に実施され、その下地中分後の検注帳(けんちゅうちょう)と理解する説もあった。しかし、この検注帳と他の土地台帳との比較をすることで、ク函1~5の土地台帳は下地中分前の全荘域を対象としたものであることが確実となっている。とりわけ、ク函11~15の正中2年(1326)2月22日、新見荘地頭方東方実検取帳と「百合」ク函16~19の正中2年5月8日、新見荘地頭方東方実検名寄帳に見られる、下地中分後の地頭方の地名との比較により、領家方に属する地名・地域も明らかになった。西方・足立地域は鎌倉期を通じて領家方、坂本地域は地頭方、千屋地域はおおむね地頭方であったが一部領家方が存在した。残る金谷地域、上市地域、神郷釜村地域、神郷高瀬地域は、いわゆる「入り組み地」で領家方と地頭方がそれぞれ相当の割合で存在する地域であった。そして、文永8年から正中2年の間に、新田が開発されたり、河川の流路が変化したりしただけでなく、地頭方の「押領(おうりょう)」により「論所(ろんしょ)」となった場所も相当あるので、「入り組み地」についての最終確定は難しく、今後の課題になっている。

なお、文永10年(1273)の下地中分時点での領家方の田数は61町8段20代30歩(「東寺百合文書」ヒ函11-1)、地頭方の田数は54町8段15代(「東寺百合文書」ク函11~15)であるから、田数だけでいえば、領家方が少し優位であるがほぼ折半されたと言える。また、正中2年(1326)の検注は、文永8年以後の新田開発や論所の結果を踏まえたもので、その時点での地頭方の土地所属を確認したものである。

4.東寺領新見荘前期(鎌倉時代末から南北朝・室町時代前期)<寛正2年(1460)まで>

後醍醐天皇は、東寺興隆に尽力した後宇多上皇の遺志をついで、正中2年(1325)に東寺講堂に新供僧六口を置くため、最勝光院執務職を寄進し、元徳元年(1329)に最勝光院領新見荘を東寺に寄進した。さらに元弘3年(1333)には新見荘地頭職も寄進した。そのため、建武新政の時期に限り、「東寺百合文書」に地頭方についての史料も現れる。しかし、建武新政が崩壊し、地頭職が足利政権の下に移ったあとは、地頭方についての情報は乏しい。

多治部の居城・塩山城跡

以後、新見荘という場合は領家方を指すことになる。南北朝の争乱期の新見荘は、国人新見太郎左衛門尉や多治部備中守師景(たじべびっちゅうのかみもろかげ)の濫妨により東寺への年貢が入らなくなったので、東寺は幕府へ訴えた。こうした事態は新見荘に限らず全国的な動向であった。そこで、幕府はいわゆる半済令(はんぜいれい)を出して、寺社本所領の年貢収入を保護しようとした。

高校日本史の教科書では、半済令は北朝=室町幕府が守護の軍勢を獲得するために荘園・公領の年貢の半分を軍事費用に充てることを許す法令であるとし、その結果守護の権限は一層拡大すると説明している。しかし、半済令には朝廷や寺社領を保護するための法令であるとも解釈でき、特に新見荘の場合は国人により全面的に支配下に入った状態からその半分を荘園領主東寺に返還する法令として実際に機能した。

貞治4年(1365)以前の東寺は、いわゆる「観応の半済令」を寺社本所領押領禁止令として適用することで、多治部氏の新見荘押領を排除して、一円(全部)の保護を要求した。貞治5年(1366)に九州探題渋川義行(きゅうしゅうたんだいしぶかわよしゆき)が備後・備中両国を兵粮料所(ひょうろうりょうじょ)として獲得し、新見荘も半済対象になったので、やむなく東寺は一時的に半分の年貢確保を実現する戦術をとったこともあった。しかし、貞治6年以後の東寺は、半済分を確保する戦術を捨てて、貞治六年令やいわゆる「応安の半済令」を寺社一円保護令ととらえ、多治部氏の排斥しようとした。

南北朝時代の備中国守護は、渋川義行、その息満頼(みつより)、細川満之(みつゆき)と続く。細川満之は、明徳4年(1393)に山名満幸(やまなみつゆき)を討伐するために任命された。明徳の乱は明徳2年(1391)に山名氏清(やまなうじきよ)を討伐するために始まったが、なお山名満幸は出雲で軍事行動を続けていたからである。明徳2年の新見荘年貢算用状(代官は山名時煕被官の宇野正治)では、230貫文のうちわずか20貫文の年貢銭が東寺に送進されたのみであった。つまり、東寺はこの時半済分すら得ていない。

室町幕府の管領(かんれい)は明徳4年(1393)に細川頼元(ほそかわよりもと)から斯波義将(しばよしゆき)に代わった。細川氏を政敵とする管領(かんれい)斯波義将は、山名満幸追討総大将であり備中国守護である細川満之に、新見荘領家方の「半済の回復」を命じた。「半済の回復」とは、兵粮料所として年貢の半分の徴収権を守護が得るという特別な臨時措置法を守護方が拡大解釈して荘園年貢のすべてを押領する状況のなかで、守護方が掌中に収めた荘園全部の内ようやく半分だけを荘園領主が取り戻したことを意味する。

新見荘領家方の半済回復は、明徳4年8月であった。東寺の使節小井塚(肥塚)と成鑑(鑑知客)が管領斯波義将奉書を持参して守護所機能のある西阿知に下向し、国奉行飯尾美濃左衛門(くにぶぎょういいおみのさえもん)の立会いのもと、守護方渡使松木から半分の下地が引き渡された(「教王護国寺文書」688、明徳5年正月日、新見荘年貢算用状)。その後、又代官新見道存により所務が行われた。所務の対象となった下地は節岡名(せちおかみょう)以下16名(みょう)で、領家方の里・中奥・高瀬の各地域に満遍なく設定されている(「東寺百合文書」フ函71、明徳4年12月日、新見荘領家方半分年貢目録)。これ以後、新見荘の支配は、地頭方・領家方守護方半済地・領家方寺家方半済地に分かれる。領家方寺家方半済地の16名が署判した百姓等申状が残っている(「東寺百合文書」さ函157、(応永2年)6月8日、領家方内寺家百姓等連署申状)。これは新見荘における最初の百姓等申状で、領家方守護方半済分の作柄を引き合いに出して損亡による年貢減免を嘆願している。応永2年(1395)から応永9年(1402)までは、領家方寺家方半済地は半済分60貫文で代官請が行われ、代官は禅僧成鑑→吉元→新見二郎直清→山伏宣深と続く。応永9年には公方近習の垪和為清(はがためきよ)が120貫文で請負っている。この額であれば、形式的には守護方半済分の回復が実現できたことになるが、実際は足利義満が愛妾西御所を所務職に宛て御料所化を図ったのである。つまり、応永9年以後の新見荘領家方の支配は、足利義満―西御所―垪和為清という重層構造で成り立っていた。なお、この時、西御所は地頭方も代官職を持っていた。

江原八幡神社

応永15年(1408)に足利義満が突然死去した後、新見荘は管領細川氏の被官安富宝城(やすとみほうじょう)が120貫文の請負額で代官となった。さらに応永27年(1420)、安富入道宝城は120貫文に30貫文の給主分を加え150貫文の請切代官となった。次に永享元年(1429に代官になった安富入道智安(俗名元衡)も同様の150貫文の請切であったが、嘉吉元年(1441)から寛正2年(1461)までの20年間で2201貫文の未進をした(「東寺百合文書」京函109-2、寛正2年8月日、新見荘未進年貢注文)。また、安富は未進だけでなく、新見荘の百姓に対しても数々の非法をはたらいたので、名主百姓41名は安富代官を否定し東寺から直務代官が派遣されることを要求して、連署起請文(れんしょきしょうもん)を東寺に捧げた(「東寺百合文書」え函23、寛正2年8月22日、新見荘名主百姓等申状并連署起請文)。東寺はこれに応えて9月に了蔵をとして、10月には乗円祐深と乗観祐成をとして派遣した。了蔵は約一年間代官のようなはたらきをして年貢の収納などに当たった。そして、寛正3年8月に「直務代官」祐清が新見荘に下向した。しかし、実は、祐清が東寺から補任されたのは一年間限定の所務職で、「直務代官」の呼称は在地での権威を粧うためであった(「東寺百合文書」け函13、寛正3年最勝光院方評定引付)。

5.祐清殺害事件と地頭方政所再建問題〈寛正4年(1463)・5年〉

祐清像

寛正2年(1461)、細川京兆家被官安富智安(ほそかわけいちょうけひかんやすとみちあん)が罷免され、新見荘は東寺の直務支配となった。同年に定使として門指了蔵が下向して所務に当たった後、寛正3年(1462)8月に東寺御影堂の三聖人うちの一人、祐清が「直務代官」として下向した。祐清は8月5日に新見荘に下着した。そして8月24日に最初の注進状3通と年貢送進状を送った。以後、寛正4年閏6月25日まで祐清は注進状を合計11通、年貢は115貫文(ほとんど)を送進した。寛正3年は長雨と大霜による不作となったことで、高瀬・中奥の百姓が年貢の減免を要求したが、代官祐清は最終的に半免にして年貢の収納を行った。新見荘では3の付く日に立つ定期市が開かれていた。祐清はこの三日市に着目し、市場で生産物を銭に変えた百姓を調べて、翌日・翌々日に年貢を徴収した。祐清が殺害された日は8月25日で、三日市の翌々日であった。前日24日に8件、950文徴収し、25日にも節岡太郎兵衛から100文徴収した(「教王護国寺文書」1714)。この徴収の直後に、祐清殺害事件が起こった。

三日市庭跡

寛正4年(1463)8月25日午後2時頃、祐清は地頭方政所の前を南から北に向け乗馬して進んでいたところ、地頭方百姓谷内と横見により殺害された。この顚末は、後に下向した上使本位田家盛(じょうしほんいでんいえもり)の報告によれば、以下の通りである(「東寺百合文書」ツ函262)。祐清は乗馬し、中間(ちゅうげん)兵衛二郎・彦四郎や年貢催促を触れ回る報頭(ほうとう)とともに進んでいた。祐清は地頭方政所の前では下馬したものの、隣の谷内宅の前で乗馬した。それを地頭方百姓の谷内と横見が咎めたことが事件の発端となった。祐清はそこから逃走したが、谷内と横見に追いかけられ、国主神社(くにしゅじんじゃ)で中間兵衛二郎とともに殺害された。これを報頭が領家方の三職(さんしょく、田所金子衡氏(たどころかなごひらうじ)・公文宮田家高(くもんみやたいえだか)・惣追捕使福本盛吉(そうついぶしふくもともりよし))や百姓等に伝えた。そして領家方百姓は、その報復として谷内の屋敷を焼き、さらに地頭方政所屋も焼いた。さらに地頭方庄主に加害者の処刑を要求するため、地頭方庄主の居所石蟹郷新屋垣内(いしがさとにいやがいと)に発向した。しかし庄主は留守で、居合わせた守護細川勝久の御内人が科人の処刑を約束したので、領家方百姓は引き返した。

備中国新見庄地頭方百姓谷内家差図
(「東寺百合文書WEBより」)

以上が事件当日の顚末であるが、この事件の情報は8月27日付の三職注進状(「東寺百合文書」サ函110など)が東寺に送られ、9月3日に最勝光院方の供僧に披露された。三職は、祐清の豊岡誅殺に対する谷内・横見の復讐が祐清殺害の原因であることを否定し、あくまで下馬咎めであることを主張した。また、祐清殺害の報復として地頭方政所屋の焼打ちを実行したとしてその正当性と東寺への奉公を主張した。なお、祐清殺害事件の発端となった下馬咎めの現場絵図は、領家方百姓の主張を明瞭に表現したもので、現在の地頭方政所跡は絵図の様子をよく留めている(「東寺百合文書」サ函399)。

祐清は領家方政所に居住していたが、そこは三職の一人惣追捕使福本盛吉の屋敷に隣接していて、福本の姉妹である「たまかき」が祐清の身の回りの世話をしていた。「たまかき」は祐清の死後、祐清の遺品の一部を形見にほしい旨の手紙を東寺に送った。「たまかき書状」は、当時の社会においては一般庶民の女性が書いた稀有な事例である(「東寺百合文書」ゆ函84)。

地頭方の領主は禅仏寺であったが、禅仏寺は相国寺の末寺であった。その相国寺の蔭凉軒主季瓊真蘂(いんりょうけんしゅきけいしんずい)は、地頭方政所の焼打ちを非難してその再建を東寺に要求してきた。相国寺は幕府将軍の菩提寺でもあったので、背後の幕府を恐れて東寺は政所再建を受け入れた。東寺の説得に対して領家方百姓は「末代までの恥辱」であると抵抗したが、最終的に買得した地頭方の奈良殿の家を解体して再建することになり、寛正5年(1464)3月17日に屋根葺きが行われた(「東寺百合文書」し函149、上使増祐・本位田家盛連署注進状)。さらに地頭方相国寺は政所再建のみならず台所の建造も要求してきた(台所は6月26日に完成)。一方、祐清殺害の科人谷内・横見は処罰されず地頭方に匿われたままであったので、領家方百姓の不満は高まった(「東寺百合文書」サ函138、上使本位田家盛・増祐注進状)。この後の事件の展開は、譲位段銭(じょういたんせん)の賦課(ふか)に関わる守護方への対応におわれるようになったため、不明である。なお、譲位段銭とは後花園天皇から後土御門天皇への譲位の儀式費用を全国負担せるものであるが、新見荘には通常段銭の賦課は免除されてきていた。

祐清殺害後は、上使本位田家盛や乗幸により所務が行われた。寛正6年(1465)7月25日に乗観祐成が直務代官に補任され、中間助八と太郎衛門とともに下向して所務を行った。

6.東寺領新見荘後期(応仁の乱から新見荘終焉)

ここでは応仁の乱から新見荘の終焉までを概観する。(1)幕府御料所期、(2)幕府の荘園再興政策と代官山田具忠期、(3)給主祐成・祐栄―多治部期、(4)「京兆家代官請(秋庭元重-妹尾重康)」期、(5)代官新見国経期、(6)代官新見貞経期、(7)代官三村家親・元親期に分けて解説する。

(1)幕府御料所期<応仁2年(1468)~文明3年(1471)>

応仁の乱が始まると、新見荘領家方は西軍与同を理由に応仁2年(1468)に幕府御料所となった。京兆家(細川本宗家)細川勝元は京兆家有力内衆秋庭氏の子息寺町又三郎を代官として入部させようとした。この時に三職や百姓は一致団結して抵抗した。有名な「御八幡にて大よりあい仕候て、・・・大かねおつき、土一きお引ならし候」と土一揆をつたえる三職注進状はこの時のものである(「東寺百合文書」サ函339、文明元年(1469)9月23日)。しかし、文明元年以後には幕府政所執事の伊勢氏が代官となり国代官として奉公衆多治部が入部した。その際、公文宮田家高・惣追捕使福本盛吉・長田・里村の百姓は多治部の入部を受け入れ、一方田所金子衡氏と中奥・高瀬の百姓は連帯して多治部と対抗する決意をした。この時、里・奥の惣村結合は分裂した。これを伝える金子衡氏注進状(「東寺百合文書」サ函333、文明3年(1471)閏8月18日)が最後の史料であるため、これ以後の展開は不明である。

(2)幕府の荘園再興政策と代官山田具忠期<文明10年(1478)~文明14年(1482)>

応仁の乱後、文明10年(1478)に足利義政の荘園再興政策のもとで、新見荘は直務荘園となった(「東寺文書」千字文之部、文明10年6月9日、足利義政御判御教書)。しかし、以前は幕府御料所であったため、伊勢貞固―三上-国代官多治部の支配は続いていた。文明11年(1479)に東寺は細川京兆家被官山田具忠を新見荘の代官に任命した(「東寺百合文書」ホ函59、文明11年閏9月21日、山田具忠新見荘領家方代官請文)。山田は多治部を京兆被官にすることで支配権を伊勢貞固から奪おうとしたが、入部することはできず年貢上納もできなかった。やむなく文明14年(1482)には東寺は伊勢貞固を代官にして所務を頼むなど混乱が続いた。この時期の新見荘の上級領主権は細川京兆家と政所執事伊勢氏との間で争われ、京兆細川政元被官山田具忠も将軍足利義尚申次の伊勢貞固も新見荘支配の実現のため、幕府中枢に働きかけを繰り返した。しかし、在地では政所執事伊勢氏の庇護のもとで多治部の押領が続いた。

(3)直務代官祐成・祐栄―多治部期<文明17年(1485)~延徳3年(1491)>

東寺は武家代官による代官請をやめ、文明17年(1485)には直務代官として乗観祐成を補任し(「東寺百合文書」ヤ函147、)、延徳元年(1489)には乗泉祐栄を直務代官としたが、二人とも多治部と連携して所務を行うしかなく、結果多治部が年貢を押領した。

(4)「京兆家代官請(秋庭元重-妹尾重康)」期<延徳3年(1491)~明応7年(1498)>

延徳3年(1491)に事態が動く。細川京兆家が請け負うことになり、給主増秀-代官細川政元-名代秋庭元重-在京実務代官妹尾重康-国代官の支配構造になった。中央政界では明応2年(1493)に京兆細川政元が新将軍を擁立する明応の政変が起こった時期である。秋庭元重は京兆細川氏の評定衆のなかで最も重要な人物であり、細川京兆家の支配下にあった備中国衙領の代官もあった。秋庭の内者妹尾重康は実務に長けた人物で、在京のまま国代官忠氏などを入部させて、割符や現銭により年貢をもたらした(「東寺百合文書」セ函59、延徳3年10月28日、妹尾重康新見荘領家方代官条々請文)。妹尾は割符の上り荷を管理する割符屋業界の中核的存在で、その財力を背景に明応3年(1494)101貫350文、明応4年62貫文、明応5年67貫300文、明応6年57貫700文の年貢銭を東寺に納めた。なお、妹尾重康書状は29通知られている。

(5)代官新見国経期明応10年(1501)~天文2年(1533)

明応7年(1498)に妹尾重康とその息重保が死去したことに加え、京兆家の内紛や秋庭元重の勢力衰退により、明応10年(1501)には細川典厩家被官の新見国経が代官として就任し(「東寺百合文書」サ函221、明応10年2月20日、新見国経新見荘領家方代官条々請文)、天文2年(1533)まで続いた。新見国経期には年貢が割符・現銭から漆・紙・蠟・鹿皮の代物納へ変化する。例えば、永正2年(1505)年が最高額であるが、公事として大・小桶各1と紙10束、公用銭91貫600文と漆指中桶2であった。割符での納入は永正9年(1512)が最後で、現銭での納入は永正13年(1516)の700文が最後である。以後は、漆指中桶(二升桶)10前後となり、天文2年は指中桶15、公用銭換算で50貫文であった。永正4年(1507)に京兆細川政元が暗殺(永正の錯乱)されたことにより、新見荘にも影響が及んだ。新見国経は当初は京兆家の権力に依拠した荘園経営を指向したが、永正8年以後は東寺に奉公することに専念し、代官職の保持により在地支配の正当性を獲得しようとした。永正12年(1515)には守護方三村と多治部の連合軍が攻め込み、弟三郎が戦死、合力していた伊達の唐松城が落城する合戦があった(「東寺百合文書」ゆ函78)。この合戦では三職も国経の居城に籠もり合戦に参加しているが、特に三職の一人公文宮田は相城を構えている(「東寺百合文書」ゆ函67)。また、享禄3年(1530)に出雲の尼子経久の備中への侵攻が始まると、新見国経は尼子に合力した。なお、新見国経書状は27通残っている。

(6)代官新見貞経期<天文3年(1534)~永禄5年(1562)>

ゆずりは城跡

新見国経期は天文2年(1533)までで、これを継承したのが新見貞経である。新見貞経書状は天文3年(1534)が初見で永禄3年(1559)が最後であるが、代官としての最終徴証は永禄5年(1562)である。新見貞経期の公用(年貢)は漆指中桶6(20貫文に相当)・漆小桶1・紙10束が平均的である。国経と同様に代官職の保持により在地支配の正当性を獲得しようとした。天文6年・8年の貞経書状によれば尼子詮久(あまこはるひさ)の麾下(きか)にあり、播磨の赤松晴政(あかまつはるひさ)への侵攻のため「備前在陣」「播磨表在陣」している(「東寺百合文書」ニ函345・258)。天文21年(1552)には漆指中12桶を送進しているが、この年には備中勢力を二分していた氏と庄氏が激突した猿掛合戦があり、三村氏が優勢となった。新見貞経は三村氏との備中北部支配の競合を意識して公用を増量したと思われる。代官新見国経の時にも戦況が高揚した時期に公用送進が増量した。また、同年には尼子晴久が備中など8カ国の守護に任じたが、尼子氏麾下にあった新見貞経はこれを背景に将軍足利義輝から白傘袋(しろかさぶくろ)・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)御免を得ている(「竹田家文書」41)。貞経は代官職を梃子(てこ)に上位の権威を獲得した。永禄元年(1558)には子息と思われる藤原大夫丸への譲状があるが、貞経は新見荘領家方のほか地頭方、備中国万寿荘(まんじゅのそう)・小坂部郷(おさかべのごう)・石蟹郷(いしがのごう)・神代郷(こうじろのごう)、讃岐国や摂津国にも所領をもっていた(「竹田家文書」26)。なお、新見貞経書状は15通残っている。

(7)代官三村家親・元親期<永禄7年(1564)以前~天正3年(1575)>

永禄5年(1562)に毛利隆元が備中守護に任命され、永禄9年(1566)に毛利元就が尼子義久を出雲国富田城に降伏させている。こうした背景により新見氏は備中北部の支配権を失い、一方毛利氏と結んでいた三村氏がそれに替わった。永禄8年(1567)、東寺は将軍足利義輝に手を回し、新見荘を「公方様御誕生日御祈禱」のための料所とし、国人三村家親をその代官とすることで、新見荘再興を図った(「東寺古文零聚」7、永禄8年4月10日、三村家親書状)。しかし、義輝は三好義重(みよしよしつぐ)・松永久通(まつながひさみち)らに暗殺され、三村家親も永禄9年に宇喜多直家の刺客により暗殺された。

三村元範終焉の地(早乙女岩)

東寺は三村を代官としたものの、商人による公用の京進システムが機能していないため、公用の運送はままならなかった。そこで永禄7年に公文円秀(祐富)を下向させ、漆指中8桶・国節料紙10束5帖・こふし不入4・代400文を運上させた。永禄9年と10年には使僧花光坊快運を下向させ、それぞれ漆指中7桶・一升桶一桶・国節料紙10束5帖・こふし不入4・代400文を運上させた(「教王護国寺文書」2771、新見荘使入足日記)。これ以後は三村氏から東寺への公用納入は見られない。天正2年に新見荘に下向した梅雪軒は、去年までは戦乱で、今年は大干魃で荒廃したため、公用送進はできないと報告した。御初穂料として紙30束だけが上納されたが、これが新見荘からの最後の上納物であった(「東寺百合文書」る函113、天正2年最勝光院方評定引付)。

三村元親は、大名化した宇喜多直家が毛利輝元と結ぶに至り、毛利氏と敵対することとなり、天正3年(1575)に滅ぼされた。

主な参考文献

辰田芳雄『中世東寺領荘園の支配と在地』校倉書房、2003年

清水克行「新見荘祐清殺害事件の真相」(東寺文書研究会『東寺文書と中世の諸相』思文閣出版、2011年)

辰田芳雄『室町・戦国期備中国新見荘の研究』日本史史料研究会、2012年

辰田芳雄「足利義満政権下の備中国新見荘」(『岡山朝日研究紀要』33,2012年)

辰田芳雄「新見荘の半済」(『岡山朝日研究紀要』34,2013年)

酒井紀美『戦乱の中の情報伝達-使者がつなぐ中世京都と在地』吉川弘文館、2014年

海老澤衷・高橋敏子編『中世荘園の環境・構造と地域社会』勉誠出版、2014年

海老澤衷・酒井紀美・清水克行編『中世の荘園空間と現代-備中国新見荘の水利・地名・たたら』勉誠出版、2014年

辰田芳雄「中世荘園の世界-新見荘と東寺百合文書」(岡山県郷土文化財団『岡山の自然と文化35-郷土文化講座から-』、2016年

辰田芳雄「明応の政変前後の新見荘在京代官妹尾重康の役割」(『岡山朝日研究紀要』37,2016年)

辰田芳雄(東京大学史料編纂所共同研究員)